ファニー・メンデルスゾーン/一年 (Das Jahr)
(Martina Frezzotti:ピアノ)



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ファニー・メンデルスゾーン=ヘンゼル(1805〜47)の室内楽の最高傑作が「ピアノ三重奏曲 作品11」ならば、
ピアノ独奏曲の最高傑作は、組曲「一年(Das Jahr)」

1839年9月、ファニーは画家である夫ウィルヘルム・ヘンゼル、9歳の息子セバスチャンと念願のイタリア旅行に出発しました。
北国ドイツの人にとって陽光まぶしいイタリアは憧れの国、日本人が沖縄やハワイに旅行したがるようなものでしょうか。
とはいえ19世紀前半の家族旅行は危険もいっぱい、巨額の費用もかかり決して容易なことではありません。

一家はミラノ、ヴェネチア、フィレンツェ、ナポリ、ローマなどを巡り、ルネッサンス芸術、イタリア音楽を堪能しました。
とくにローマには1839年11月から1840年6月まで半年以上滞在し、多くの音楽家・芸術家と親しくなりました。
ローマのヴィラ・メディチにはフランスの若い芸術家たちが留学していて(いわゆる「ローマ賞」の受賞者たち)、
ファニーは彼らと毎晩のように音楽を楽しみました。
芸術家たちはファニーの音楽的能力に驚嘆し、彼女を囲むサロンのようなものが形成されました。
なかでも21歳のシャルル・グノー(1818〜93)は13歳年上の彼女にすっかり魅了され、熱烈な崇拝者となりました。

 マダム・ヘンゼルは人並み外れた音楽家であり、すばらしいピアニストであり、才気あふれる女性だった。
 体つきは小柄だが、活力に溢れ、それは彼女の深い目と燃えるようなまなざしから感じ取られた。
 彼女は作曲家として稀な才能に恵まれていた。                シャルル・グノー「回想録」より


ファニーは彼らにバッハ、モーツァルト、ベートーヴェンなどのドイツ音楽を弾いて聴かせました。
当時バッハの音楽はドイツ以外ではまだあまり知られておらず、新鮮な驚きをもって迎えられたとか。
グノーはのちにバッハの平均律クラヴィーア曲集第1巻第1曲の前奏曲にメロディを乗せ、有名な「アヴェ・マリア」を作りました。

ローマ滞在はあまりにも楽しく、ファニーさん「帰りたくないよ〜」とごねたそうですが、そういうわけにもいかず、
一行は1840年6月にローマを立ち、11月にベルリンの自宅に帰ります。


夫ウィルヘルム・ヘンゼルが描いたファニーの肖像


組曲「一年(Das Jahr)」は翌1841年8月から12月にかけて、楽しかったイタリア旅行を思い返しながら作曲されました。
「1月」から「12月」までの各曲に「後奏曲」を加えた13曲からなる55分の大作です。
各曲はすべて調性が異なり、ロ長調→嬰ヘ長調(属調)→嬰ヘ短調(同名短調)と順次関連する調へ移行、緻密な計算がうかがえます。
ファニーさんは全13曲まとめて一つの作品として構想していたのですね。
単純な三部形式の曲などはなく、どの曲も凝った構成なので最初はつかみどころがないかもしれませんが、聴きこむうちに独創性に魅了されます。


 素晴らしい曲集なので長いけど全曲ご紹介しちゃいますよ、覚悟はいいですか ?


第1曲「1月 夢」は、タイトル通りまどろむように始まり、さまざまな楽想が現れては消える一見とりとめのない曲。
しかしじつはオペラの序曲のように後に続く曲のフレーズがあちこちに埋め込まれているのです。
イタリア旅行中のさまざまな出来事を夢の中で回想しているファニーさん。
アタッカで次に続きます。

 

「2月 スケルツォ」は、ローマの謝肉祭の喧噪を描写した陽気で忙しい曲。
激しく技巧的なクライマックスの後、朝の鐘の音(2:25〜)が響いていったん静まり、人々が家に戻ってゆく様子までが音で描かれます。
ファニーさん芸が細かいなあ。

 

「3月」は、愁いに満ちた冒頭主題が魅力的で、技巧的で華やかな「2月」からの対照の妙を感じます。。
春の訪れである3月に、ファニーさん何を思い悩んでいるのでしょう。
中間部(1:33〜)では復活祭コラール「キリストは復活したまえり」が寂しげに引用されますが、徐々に豊かに明るく盛り上がります。

 

「4月 カプリッチョ」は、春の陽光のように穏やかなメロディに始まります。0:27から活発になり、子供が遊び戯れているような雰囲気に。
ふたつのメロディがちょっとずつ変形しながら何度か繰り返されます。

 

「5月 春の歌」
いかにも春らしいのどかなメロディが優雅に歌い続けられる、幸福感に満ちたすてきな曲。
フェリックス・メンデルスゾーンの無言歌集にも「春の歌」はあり、もちろん名曲ですが、ファニーさんには通俗的サロン音楽とは一線を画する格調の高さがあります。

 

個人的にいちばん好きなのは「6月 セレナーデ」
ナポリの舟歌
をイメージした情感あふれる曲で最初から最後まで繊細な美しさに満ちあふれています。
メランコリックなラルゴの序奏につづき、0:24から主部となり愁いを帯びた主題が呈示され、熱っぽく展開されます。
一貫して流れる細かい三連符は波の揺らぎを表現します。
なお一家は1840年6月にナポリを訪れています。
近郊のヴェスヴィオ火山に登ったところ、ファニーさん膝まで火山灰に埋まって大変な目にあったそうです。

 

「7月 セレナーデ」
6月と同じく「セレナーデ」と題されていますが、メランコリックで物憂げな雰囲気に包まれた、謎めいた曲です。
左手の低音のトレモロが不吉な感じで印象的です。

 

「8月」の序奏はヨーデルがこだまするようで、アルプスの夏の風景でしょうか。
明るく朗らかな曲で、中間部以降は華麗なアルペジオが次々に転調、くるくる変容する表情が魅力的です。
ファニーさんは実際に1840年8月の帰路にアルプス越えをしていますが、
馬車のブレーキが壊れるわ、ようやくたどり着いた宿で法外な宿泊費を吹っ掛けられるわで、これまた散々な目にあったそうです。

 

「9月 川にて」は、全曲にわたって川の流れを描写する三連符が繊細かつ優美に歌い続ける曲。
この曲だけは、「ピアノのための4つの無言歌作品2」の第2曲として生前に出版されています。

 

「10月」は勇壮な狩の歌、力強く華やかで、曲調は変化に富んで技巧的です。
華々しさと逞しさに満ちた活発な曲です。

 

「11月」はうって変わって、晩秋の寂しさを歌ったようなバラード。
1:50からアレグロに転じ、風に舞う枯葉のような目まぐるしいフレーズが展開されます。
2:40から唐突に長調になりますが、それも長くは続かず枯葉のフレーズが再現、
その後アダージョとなり冒頭のメロディを短く回想したかと思うと、突如激しいパッセージで曲を閉じます。
物語性を感じさせる劇的な曲。

 

「12月」は、粉雪が舞う風景の描写、妖精が遊び戯れているようにも感じられます。
2:18で半終止し、おもむろにクリスマスの讃美歌(高きみ空より)が登場、これを変奏しながら晴れやかなクライマックスに達し重厚な響きの中に大団円となります。

 

「後奏曲 コラール」
コラール(讃美歌)「古き年は過ぎ去りぬ」のメロディが自由に引用されます。
1年が無事に終わったことを神に感謝して静かに全曲を締めくくります。

 

内容といい楽曲構想といい独創的な名作ですが、生前に出版されることはありませんでした。
ファニーの手稿に夫ウィルヘルムが絵を添えた自筆譜がメンデルスゾーン家に秘蔵され、出版されたのは1989年(死後142年)。
もし生前に出版予定があったなら、ファニーは手を入れてさらに完成度の高い作品に仕上げていたことでしょう。
なお現在は自筆譜をIMSLPで見ることができます(いい時代になったもんだ・・・)。

 (「1月 夢」の自筆譜の一部)


このCDには余白に小品がいくつか収められています。
なかでもノクターン ト短調 H.337(ノットゥルノ)は繊細でロマンティックで、ファニー・メンデルスゾーンの魅力を凝縮したような珠玉作です。

 


 ああイタリア、あなたはなんて素晴らしいのでしょう。わたしはあなたのおかげでどんなに豊かになったことでしょう。
 この比類なき宝の山を心の中に入れて家に運びましょう。でも私の記憶は本当に正確なままでいるでしょうか。
 私が感じたように鮮やかに留めておけるでしょうか。   (ファニー・メンデルスゾーンの日記より)



なお組曲「Das Jahr」はアタッカでつながっている曲が多く、続けて聴いたほうが作曲者の意図にかなっていると思います。
よろしければ全曲とおして聴かれてみてはいかがでしょうか。
  ↓
 


(2022.01.09.)


参考文献
山下剛/もうひとりのメンデルスゾーン(未知谷、2006年)
ウテ・ビュヒター=レーマー/ファニー・メンデルスゾーン=ヘンゼル〜時代に埋もれた女性作曲家の生涯(春風社、2015年)


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