小川洋子/博士の愛した数式(新潮社、2003年)



Amazon.co.jp : 博士の愛した数式


<ストーリー>
 通いの家政婦をしながら10歳の息子を育てている「わたし」の新しい顧客は、初老の男性。
 彼、「博士」は数学者ですが、十数年前、交通事故で脳に障害を負ってから、
 記憶が80分しか持たなくなり、現在は隠棲状態。
 毎日が初対面になってしまう「博士」との仕事にとまどう「わたし」。
 ある日「わたし」に息子がいることを知った博士は、ここに連れてくるように強い口調で命令します。
 「子供を独りぼっちにしておくなんて、いかなる場合にも許されん。
 (中略)母親なら、自分の息子のために食事を作ってやるべきだ」

 やむなくつれてきた息子は意外なことに「博士」と意気投合、「ルート」というあだ名をつけてもらいます。


私は純文学に関しては、あまり良い読者ではありません。
いつも読んでいるエンタメ系小説とは、言葉の選び方が違うので、戸惑うこともあります。
しかし、この作品はとても読みやすかったです。
平易な言葉のつながりで、透明な物語が淡々と紡がれてゆきます。
これなら、最近のミステリのほうがよっぽど難しい漢字や言葉を使っていますね。

80分しか記憶が持続しない「博士」が愛してやまないのは、永遠不変の数学の世界。
一日に何度も新たに生まれ変わる「博士」と、経験を糧に成長してゆく「ルート」は、
ともに無垢なるものの象徴ですが、みごとに対比しています。
ラストでは「ルート」が博士の愛する数学の世界を受け継いでゆくことが示され、
物語は、ひとつの公式のように整ったかたちで終わりを迎えます。
内に向かって完結した、作り物めいた世界ではありますが、ここまで美しく描かれればなんにも言えません。
変につっこみを入れるのは野暮というもの。

数学のことなら安心して話していられる「博士」の口からは、
「友愛数」「完全数」「双子素数」「フェルマーの最終定理」などの言葉が、詩のようにこぼれ出してきます。
そして「博士」が「ルート」に注ぐ無私の愛情の美しさ。
算数の宿題を教えてあげる場面はすばらしいです(48ページ)。
なるほど、このように教えてやれば、子供はよく理解できるんだなあ、と思いながら
現実には「なんでこんなことがわからんのじゃあー!」と叫んでは、娘の頭をしばいております。

数学がこの物語のひとつの軸ですが、もうひとつの重要な軸は阪神タイガースです。
阪神がリーグ優勝を争いながらも結局優勝を逃した1992年の出来事として描かれ、
「ルート」も「博士」も阪神ファンという設定 (もっとも「博士」の知っている阪神は江夏が活躍した1975年まで)
著者の小川洋子さんもひょっとして阪神ファンなのでしょうか、
タイガースを描写する筆致には、愛があふれています。
ラストシーンは江夏投手への熱い熱いオマージュ。
阪神が18年ぶりにリーグ優勝した今年に、このような小説が書かれるとは、なんだか出来すぎていますが、
阪神ファン&数学ファンの方は必読、と言わせていただきましょう。
(03.11.2.記)


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