米原万里/オリガ・モリソヴナの反語法(集英社、2002年)
「ああ神様! これぞ神様が与えてくださった天分でなくてなんだろう。長生きはしてみるもんだ。
こんな才能初めてお目にかかるよ! あたしゃ嬉しくて嬉しくて嬉しくて狂い死にしそうだね!
(中略)そこの驚くべき天才少年のことだよ! まだその信じ難い才能にお気づきでないご様子だね。
何をボーッと突っ立ってるんだい! えっ?!」
・・・1960年代のはじめ。 日本人少女・志摩は、父の仕事の都合でプラハのソビエト学校に転校します。
学校の名物はオリガ・モリソヴナというダンス教師。
老女ながら目を引く美貌と引き締まった肉体、1920年代風の派手な服装、そして見事な踊りに、口の悪さ。
彼女が大げさに褒めちぎるとき、それは最大級の罵倒を意味します。
生徒達は「反語法」と呼ぶその悪罵を、恐れながらも楽しんで聞くのでした。
若いころは一流ダンサーとしてモスクワで活躍したという噂があるものの、経歴は不詳。
突然長期に休んだり、「アルジェリア」という言葉に異常な反応を示したり、謎めいた人物です。
彼女にあこがれた志摩は、帰国後ダンサーを目指しますが挫折し、ロシア語の翻訳者に。
月日は流れ、1991年にソ連は崩壊。
「オリガ先生は一体何者だったのだろう?」
好奇心に駆られるまま、志摩はオリガ先生の半生を調べる旅に出ます。
ロシア語の同時通訳者でありエッセイストの米原万里さんの長編小説。
かなりの部分は著者の実体験に基づいているようです。
それにしても普通の学校に「ダンス教師」っていうのがいたんですね、かつての東側には。
オリガの謎が解けていく過程は、淡々と言うかむしろとんとん拍子、スリルはありません。
図書館の司書が非常に親切で次々に資料を見せてくれたり、学校時代の旧友にいとも簡単に再会できたり、
「そんなにうまくはいかんだろ〜、普通」と、つっこみたくなってしまいます。
にもかかわらずとても面白く、ページをめくるのももどかしく読めてしまうのは、
オリガ・モリソヴナの人生があまりにも波乱万丈・壮絶・劇的であるからにほかなりません。
彼女の人生を狂わせたのは、1930年代後半から吹き荒れたスターリンによる大粛清でした。
スターリン時代については、ソルジェニーツィンの「イワン・デニーソヴィッチの一日」や
ヴォルコフの「ショスタコーヴィチの証言」を読んで、ある程度の知識をもってはいたのですが、
むしろ米原さんのこの本のほうが詳しくて、迫力があるような感じさえします (ノーベル賞作家より上ってか?!)
・・・本当に悲惨な時代です。
もし自分がこのような社会に身を置く羽目になったら、どのように生きれば良いのだろうと考えるだけで
冷や汗がにじんできそうです。
非常に重い物語ですが、すんなり読めるのは、
志摩という第三者の口を通して間接的に語られるためと、
米原さんの文体が良く言えば即物的で乾いていて、センチメンタルなところが感じられないせいでしょう。
悪く言えば翻訳調の硬さのある文章ですが、この小説の場合、正解かも (などどえらそーに・・・)。
なおタイトルにもなっている「反語法」ですが、
仕事でお付き合いのある女性(医学関係)に、これをよく使う人がいたんですよ。
「いやー、このメスは、よく切れるねえ!」 「このレンズは、よく見えるねえ! もう最高!」
(もちろん、さっぱり切れない、見えないと言いたいわけですが・・・)
しょっちゅう楽しそうに悪態ついてました。 女性に似合う言い方なのかな。
(03.1.18.記)