ゴーゴリ/鼻 外套 査察官
(浦雅春・訳 光文社古典新訳文庫 2006年)
一席申し上げます。
去年の秋頃、光文社ってぇ出版社から、「光文社古典新訳文庫」と銘打ちまして、
海外の古典文学が新しい翻訳で出始めましてねぇ。
そのなかに、ゴーゴリを落語調で翻訳したものがあるってんで、遅ればせながら読んでみましたら、
なるほどこりゃあ本当に落語じゃありませんか。
<「いったい何だろうね、これは?」
指を突っ込んで引っ張り出して見るってえと、・・・これがなんと、鼻ッ!
・・・イワン・ヤーコヴレヴィチは二の句がつげない。目をこすって、もういちどさわってみますが――やっぱり、鼻ッ!
正真正銘、掛け値なしの、どこからどう見たって、どう転んだって、鼻ッ!
それどころか、どうやら見覚えがあるような気がいたします。
イワン・ヤーコヴレヴィチの顔には、もう恐怖の色がうかんでおります。
ところが、この床屋の亭主の恐怖なんざ、おかみさんの剣幕に比べれば屁でもない。>(11ページ)
てな具合でございますな。
同じ箇所を、従来の訳(青空文庫で読めます)で読んでみますってえと、
<「いったい何だろう、これは?」
彼は指を突っこんでつまみ出した――鼻だ! ・・・イワン・ヤーコウレヴィッチは思わず手を引っこめた。
眼をこすって、また指でさわって見た。鼻だ、まさしく鼻である! しかも、その上、誰か知った人の鼻のようだ。
イワン・ヤーコウレヴィッチの顔にはまざまざと恐怖の色が現われた。
しかしその恐怖も、彼の細君が駆られた憤怒に比べては物のかずではなかった。>(平井肇・訳)
だいたいこの「鼻」ってお話、あるお役人の鼻が勝手に歩き出して、制服を着て街を歩いたり、乗合馬車に乗り込んだり。
おまけにこれが、鼻の持ち主(八等官)よりも位の高い五等官の制服だったりするから大変だ。
不条理といや聞こえはいいが、言うてしまえば滅茶苦茶なお話でごじゃりますから、
堅苦しい口調で訳されてもどうもピンとこない。
そこへいくと落語調は妙な話にもスーッと入って行けやすから都合がよろしいってなもんでして。
「外套」は、下っ端役人がなけなしの金をはたいて立派な外套を新調したら、いきなり強盗に奪われっちまiい、
ショックのあまり死んでしまうってぇ、一見気の毒な話でございます。
ところがこのお役人、化けて出まして、うらめしやぁと道行く人の外套を片っ端から引っぺがして回るっていう、
怪談めいた、でも妙に可笑しい展開になるんですなこれが。
ある田舎町を訪れた文無しの旅人を、市長やら判事やら警察署長やらが、ペテルブルグからやってきた査察官と勘違い。
下にも置かぬもてなしを受けるうちに旅人も図に乗ってきて・・・ってなドタバタ戯曲「査察官」。
関西風のギャグをちりばめれば、まんま吉本で上演できそうな代物です。
作者のゴーゴリ(1809〜1852)って御仁、あっしはよく知らないんですが、
解説によると、高尚な文学というよりは、単にオモシロオカシイ、受けるお話を書きたかったようでして、
体制批判とか、現実の矛盾を暴くとか、市井の人間を愛情こめて描くとかいう気は、さらさら無かったらしいですな。
ところが後世の読者の深読み&誤読のせいで、
気の毒に「ロシア写実主義文学の祖」に祭り上げられてしまったそうです(と解説に書いてあります)。
鼻が制服着て歩き回る話のどこが「写実主義」なのか、さっぱりわかりませんがねえ。。。
それにしても百数十年前のロシアに、初期の筒井康隆みたいなスラップスティック作家がいたんですな。
でも、わが日本にも昔から「あたま山」、「粗忽長屋」など、不条理でしかも笑える噺が、綿々と語り継がれてます。
決して負けちゃいません。
じつはゴーゴリ、たいへんな語り上手、身振り手振りに声色も使い、自作を巧みに朗読したそうでございます。
この落語調「鼻」を、たとえば古今亭志ん生が演じたものと、原文をゴーゴリ自身が朗読したものを比べれば、
いったいどちらに軍配が上がるでしょうね(ロシア語わかりませんけど)。
そりゃあやっぱり志ん生だけに、古今亭の辛勝でございましょう。
・・・おあとがよろしいようで。
(07.6.1.)